本当のkawaiiはprettyじゃない
英語の辞書にも載っている日本語に『可愛い』がある。
同じような意味ならば、pretty、cute、lovelyがあげられるが、もっと深く日本人の感覚に近いkawaiiを海外の方に理解していただく為にはどのように解釈すればいいのだろうか。
ピンク色でフリフリで小柄で奥ゆかしいものが可愛いといってしまえば確かにそうかもしれないが、それだけだとlovelyやcuteに依った表現にも思える。
そもそも、可愛いは日本のポップカルチャーから発信された言葉であり、アニメやアイドルが海外で広がった事もその成立の背景になるのではないでしょうか。
だとすれば、kawaiiは日本のサブカル的な装飾やキャラクターに対して向けられる執着や愛着が、その内面やイメージをも対象としたものといえる。
例えば、実際には女性的な外見や単に小さい訳ではないゆるキャラであったり、一見するとグロテスクにさえ感じられるエレキテル連合の白塗りなどに対しても愛着を感じてしまう事があるのが可愛いの特徴である。
日本人の可愛いと海外の方が使用するkawaiiの違いがそこに感じられないだろうか。
明日の為に学ぶれきし
人間と他の生き物の大きな違いは、積み重ねてきた歴史があるという事である。
時間という概念を持った瞬間から人間は過去の記録を持ち続けるに至った訳で、本来なら川の流れと同じように、その日、その時、その瞬間は一度しか存在しない。
だから、通り過ぎた川の流れを省みる事に意味を見いだした人間とは、生き物の中でも特異な存在なのかもしれない。
歴史を記したヘロドトスは、戦争や国家間の対立を記録する事で時間の経過とともに変遷する世界の有り様を記録した。
その時点ですら、既に起きた過去の栄枯盛衰、政略図の塗り変わりを省みる試みが始まっている。
今が訪れた瞬間に、普通の感覚を持った私達は既に過去を省みる。
歴史というと、仰々しいが、人間は自我が芽生えるのと同時に過去という概念を獲得する。
生きるために飲み食いし、眠り寒さや暑さからみを守り、子孫を残す為にはそれ程重要な概念ではない。
にもかかわらず、私達は今ではなく過去に固執し続ける。
私達や私達の両親が生まれる前にあった出来事にすら、関心を抱き、やがてはそれが確執を生む。
歴史は私達の行動や言動、意志の決定に深く関与しており、意識せずとも影響を受けざるをえない。
新しい年の始まりとともに未来への思いを馳せる元日。
できれば、一人一人が過去の歴史や確執に惑わされることなく、本質を見極める目をもって行動や発言をして欲しいと思う。
○○ヘッドラインに物申す
芸能、社会、スポーツなどのジャンルに加えてネタのような記事も増えている。
内容の希薄さにも驚かされるが、個人の所感やソースの怪しい明らかに適当に書かれたであろう記事が眼に飛び込んでくると、嫌になる。
いかにも、「アンタら大衆はこういう中身のない記事でも読んでたら?」というように馬鹿にされている気がしてならない。
ただ、それでも真面目に経済や事件を扱う記事もあって、忙しい朝にかいつまんで情報を得るには便利かと思いきや、続きを読むには登録してください。
核心に入る寸前でログインしろと要求されたりする。
この程度の記事を読む為にいちいち承認を求めるのか。
それなら、最初からヘッドラインなど勝手に表示させないで欲しい。